ようこそ、「百姓塾」へ!!
2020.1.15
「百姓」と聞いて、みなさんはどんなイメージを持たれますか?
農業に従事する人?・・・農作業をする事?・・・
実は、昔、「お百姓さん」と呼ばれた人たちは、農作業だけやっているのではなく、あらゆる能力を有し、色んな仕事を担っていた、尊敬される人だったそうです。
ある農学者は、「“百”は「たくさん」、“姓”は「かばね」、「かばね」とは古代の苗字に当るもので、苗字は昔、職業を表した。要するに姓は能力を意味する。従ってたくさんの能力が無いとできない仕事が「百姓」という事だ」と説いています。
「百姓」は、人間として生まれ持って来たあらゆる能力を十二分に発揮して生きられる仕事なのかもしれません。
そんな力をつけられるのが、類子屋の「農業体験+自然体験」。
「農業体験+自然体験」といっても、土づくりから栽培、収穫、販売までを担い、”現実の生産課題”に取り組む、れっきとした「仕事」。
自然と向き合っていく中で、あらゆるものを生かそうと思うと、常に「どうする?」を考える必要があり、すると、単に農作業だけをしていればいいわけではなく、建築であったり、野草たちの名前を知る必要だったり、地域の人々とどう協働していくかなど、追求すべき課題は無限に出てきます。
子どもたちもここでは自然外圧をダイレクトに受けながら、農業にも取り組み、みんなで野菜を育ててきたりもしました。
また、先日はそれをみんなで調理し、みんなで味わう機会を設けました。
そこにはなんともいえない充足感や一体感のようなものを感じ、また、初回からの参加者、今回が初めての参加者、久しぶりの参加者などさまざまでしたが、そういうことも関係なく、ただみんなで味わうことの喜びを感じられました。
採れた野菜を食べているだけなのですが、その背後には、これまで育ってきた経過や植物そのものの姿や、育ててくれたその土地の自然のことが感じられ、「食べる」というよりも自然や植物の命と「混ざる」というような感覚をも持ちました。
自然と対話しながら、作物を育て、みんなでそれを味わうということは、人間として基本であり、とても大切だと、感じた瞬間でもありました。
このように、類子屋の農業体験+自然体験は、単なる農業体験+自然体験ではなく、本当に必要な能力形成や充足が得られる場。
いわば、百の能力を育成する「百姓塾」。
昔のお百姓さんは、自らの能力を社会に対しお互いに発揮することで自他を認め合い、より良い社会を形成していこうという姿勢がありました。そしてそれこそが、農業の本質だったといわれています。
学校教育などで植え付けられた観念によって、本来持ち合わせている能力や社会生活を営む上で必要な根本規範がことごとく封鎖されている現代だからこそ、昔のお百姓さんのように、健全な身体作りとともに、思い通りに行かない現実に対しても「どうする?」と思考する意欲・追求力を子どもたちにも育んでいきませんか?
是非、その扉を開いてみてください!